これからの「適応」とは
こんにちは。
今年はとある本に影響されて、色んな縁もあり今までにないペースで沢山の国へ行きました。それを通じて感じたことを、前述の本での理解も含めて書いてみます。
【日本は安くなった】
この話を聞いたことがあるだろうか?
よく海外へ行く人は実感していると思うし、知識として知っている人もわりといるのではないかと思う。
この現象は仕方ないし、相対的にどんどん安くなるのはもはや防ぎようがない。
問題なのは、それに対しての認識が当の本人である日本人の中に浸透してないこと。
企業は、日本が名実ともにアジアのリーダーだった時代のやり方を変えていかなければならないし、各個人は年功序列に昇給していくシステムは崩壊していることに気づかなければならない。
早ければ数年のうちに、個人レベルでの経済水準は新興国に追い抜かれることも覚悟しなければならないと思う。
もちろん先進国の間では既に上位クラスとは言えない。そういった意味では、もう魅力溢れる国ではなくなっている。
新興国の彼らは特別金持ちでもないけれど、颯爽とトヨタやヒュンダイの車に乗り、クラブで飲み、たまにはブランドショップで買い物をする。連休には海外だって行く。食事なんて日本よりも高い金額で外食している。多くの日本人が抱いているイメージは既に時代遅れである。
だけど僕が感じたポイントはそこじゃない。
国にもよるが、彼らの多くは、まだかろうじて日本のことをリーダーと認識しているように思う。
政府の様々な援助に対して個人レベルで感謝を述べたり、「世界でもトップクラスに先進的で、物価が高く、洗練された街」なんてイメージがまだまだ残ってる。
つまり、民間レベルではお互いに過去のイメージが尾を引いており、実態よりも随分と日本は得をしており、更に勘違いまでしてる状態なのだ。
しかしこのズレはそうそう長くは続かない。周りの国に愛想を尽かされる前に日本人がやるべき事はたくさんある。
繰り返すが、この流れはもう止めることは出来ない。どの判断材料を見ても歴然の事実である。
国レベルで言えば、この【安さ】を利用しない手はない。更に言えば世界一治安が良く、食事も美味しい。まさに訪日観光客からすれば最高の国だ。
しかし、サービスも最高レベルなのだが何故か外国人への対応は遅れている。
まず、既にそうなりつつあるが外国人スタッフをどんどん増やし、対応を充実させ、どんどん観光客を呼び込む。
僕たち日本人が過去やってきたように、世界中の豊かな国の人たちに惜しげもなく来てもらって稼ぎまくればよい。
また、これは大きな変革となるが、移民を受け入れるべきだと思う。これにより労働人口減少をはじめとする、日本の抱えている様々な問題が一気に解決する。もちろん弊害は少なからず出るだろう。
しかし、何のリスクもなく変わる事など出来るわけがない。このままジリ貧になったとしても、いつかはそんな日が来る。世界の流れの中に日本だって取り込まれているのだから。
とはいえ、もう既に日本は最も魅力的な移住先とは言えなくなってきている。給与水準だって、中・韓・香港・シンガポール・更にはタイのバンコクなどでさえ、日本の新卒の水準に迫る勢いだ。教育レベルも同じで、東大の大幅なランクダウンは記憶に新しい事だろう。
手を打つなら今のうちしかない。
次に各個人の話だが、ハッキリ言うともう諦めるしかない。
確かに感情的には少し受け入れづらい部分もあるが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」など既に過去の栄光。現実を直視して生きていくしかない。
給与が上がらないとか、移民やロボットに仕事を奪われるとか。そんなものは誰の責任でもなく自分のせいだ。
いつの時代も変化の兆候はあり、警鐘も鳴っている。文句を言う暇があったら変化に適応するように努力したらいい。
物理的な距離が縮まって久しく、世界中の情報も繋がり、今は世界中が一気に変化する過渡期にある。このように人や情報が容易に行き来する時代では、もはや「どこの国の人」なんて意識は徐々に薄まっていくのかもしれないが。
もう日本は完全に置いていかれている。この目で見てきた事実だ。受け入れて、適応していこう。
自動運転、IoT、ドローン、AI、更には宇宙進出まで。人類は止まらないし、数年先には聞いた事のない言葉が当たり前のように飛び交っているだろう。
変化のスピードはどんどん早まっているので、今までのように時代がその時々で立ち止まる事はもうない。まるでベルトコンベアのように流れ続ける。
何にも捉われずに、流れに身を任せながら全てを受け入れることが、これからの時代の適応と呼べるのかもしれない。
ではまた。
元気な個人の「共同体」
こんにちは。久しぶりの更新です。
昨日、孫正義さんの弟である孫泰蔵さんがFacebookに投稿した内容が非常に興味深かったので、それについて少し書いてみます。(2016/7/19 投稿)
https://www.facebook.com/taizoson?fref=ts
前半部分も非常に面白いんだけど、後半部分に注目してみた。以下一部引用。
”僕の志向するやり方というのは、連結して財務的に大きなパワーを持っているということで人々を元気づけてダイナミックな力を発揮させるのではなく、一つ一つの企業体をできるだけ小さく保つことで生命力を最大限に引き上げ、企業体の「群れ」でイノベーションをコレクティブに加速させていくというやり方だ(まだ確立できていないので説明が抽象的なのはご愛嬌(笑))。
おそらくモデル確立に至るヒントは、「企業体」よりもさらに小さな「個人」に着目し、元気な個人の「共同体」を作っていくことで活力を高めるというやり方にありそうだという予感はしているのだが、まだその形を確立するには至っていない。”
これは、まさに今僕ら挑戦しているものに近いんじゃないかな。孫泰蔵さんでさえこれだけ抽象的な理解なので、当然僕なんかがきちっと説明できるわけはないんだけど、近い感覚を肌で感じ始めていた。道を間違え、蛇行しながらも確実にこの方向で新しいモデルを確立していってる。
世界中が繋がってきて、情報だけでなく物理的な距離さえもどんどん縮まり、更にこれからは人種の壁さえどんどん溶けていく。それに比例して世の中の変化のスピードは加速していく。つまり世界はどんどん平均化していくし、それに向かう過程で様々なイノベーションが連鎖的に起こり続けることで世の中は変化していく。短期的には変化なんだけど、長期的には収斂していってるという感じ。
その中でも日本は最先端に位置していると思う。人間が群れを作るのは元来生存確率を高める為だったし、極論今の雇用というシステムも一部の人たちを除いてそれに近い感覚であると思う。いわゆる”生活の為に働いている”人たちのことね。
日本を最先端と位置付けたのは、生存確率という面で最も高い国だから。実は”生活の為に働く”必要がほとんどなくなってきている。物価は安くシェア文化が定着しつつあり治安も抜群にいい。生活保護という仕組みもあるし気候も良い。ベーシックインカムなどが導入されたらもう生存欲求など働く動機から消え去ってしまう。
人には本来個性がある。こういった不安が根底から拭い去られて自由になった時、多くの人は自分の好きなことをするはずだ。
いま現在好きに活動できている人は、多くは群れずに生きていける生命力がある人。だけど、これからはそれを持ち合わせていなかった人たちでも生きていける事に気付き始めているはず。
生存確率が高まった事により以前よりも個人として必要な能力は下がっているので、それが自然な流れだと思う。
今はまだ思い込みや習慣として雇用のカタチは続いてるけど、自由になった元気な個人の共同体は、好き好きに活動することでより活力を得て、その自活により結果として生命力を増していく。
例えば堀江さんのHIUでは、自立した個人がお互いを刺激し合いながら高め合える環境ができている。”誰にも強制されず自発的に”。
今はまだ内向きだけど、これが更なる成長を重ねればどんどん外へ飛び出して行き、イノベーションを起こしていくだろう。
今の社会の仕組みはこれからの現実に則してないから、きっと変化に対応しきれない。今挑戦していることはきっと間違っていないと思う。
それではまた。
村社会化するネット時代と個性のお話
こんばんは。花粉症、辛いですね。これだけ多くの国民がマスクをしてくしゃみをし、計り知れない程の経済損失を与え続けてるにも関わらず日本政府は未だにどんどんスギを植えてます。いったい何を考えてるんでしょうか。
諸行無常を理解すること
最近、昔よく行ったお店でランチを食べながら物思いに耽っている。今日は富士そばに来た。
なぜ会社をやるのか?
脳の限界とその使い方について
こんばんは。
久しぶりのブログ更新です。
どうしても書きたい事がある時だけ更新しようと思っていたのですが、このままじゃあ埋もれてしまいそうなので無理矢理書いてみる事にしました。
僕の前職のキャリア上、今でもたまに女性から恋愛について相談される事があるのですが、その中で繰り返し話しながら考えがハッキリしたこと
【脳の限界とその使い方】今日はこれについて書きます。
僕たちの活動は、全て脳が司っていますよね。
普段の思考から無意識下で行われている生命活動、今僕がこの文章を書いている指先の繊細な動きも全て脳が信号を発し、それに従って動いています。
もちろん脳の容量や処理能力には限界がありますので、人間は文字、活版印刷、電卓、コンピューターなどのテクノロジーを開発し、その機能をどんどん拡張してきました。
ですが、これらテクノロジーはあくまで脳の機能を拡張させるための”補助”の役割を果たすものであり、現段階では脳そのものの機能を向上させる技術はありません。
テクノロジーの生み出したこれら機械の持つ計算能力や記憶力は、既に速度・正確さ・容量共に脳を遥かに超えていますので、これらの能力を持っている事には何の価値もありません。
では、人間だけが持つ能力とは何か?
それは、クリエイティブな思考力です。
この部分に関しては神の領域と言いますか、AI(人工知能)についての話題に事欠かない現代でも、AIが人間のそれを超える日が来るのかどうかは未だに意見が分かれていて、少なくともこの先10年ではまだ到達不可能な領域ではないかと思います。
機械に置き換えられない領域の価値が高まっていくのは明白なので、脳の限られた容量や処理能力のパフォーマンスを如何に高めて思考し、価値あるものを生み出せるかという部分を考えていく必要があります。
僕たちは普段、無数の物事を脳で処理しています。
仕事のこと、人間関係のこと、恋愛のこと、家族のこと、細かい所では今日着る服の選択や食事のメニュー決めまで、確実に脳の容量を使っています。
冒頭で述べたような相談をされる時に多いのが
『恋人と喧嘩して、仕事が手につかない』というような内容です。
これはつまり、関係が拗れた事で脳内における恋人の事を考える割合が増えるが、容量自体は変わらない為に、仕事に割いていた分が奪われている状態を指します。
となると相談の答えはある程度決まっていて、ざっくり言うと
『あまり考えるな、仕事しろ』ですね。
まあこの場合は容量が適度に使用されているのでまだマシな状態で、容量に多くの空きがある場合が一番厄介です。
多くの場合はその空きを使って余計な事を考えてしまいがちで、その結果必要以上に不安に駆られたり、ネガティブ思考に陥っている人をよく見かけます。
脳の持つ能力自体に限界がある事は前述の通りですので、僕たちは”どの事柄”に”どの程度”の容量を割くのか、という事だけを意識してコントロールすべきではないかと思っています。
容量をできるだけ価値のあるクリエイティブな思考で満たし、余計な事に割く容量をできるだけ減らす。それこそが、自分自身の価値を高め、不安や悩みなどネガティブ思考をきれいに拭い去る唯一の方法であると。
まあ、理屈では分かっていながら毎晩不安や葛藤は襲ってくるし、自分に負ける度に陥る自己嫌悪と戦い続ける毎日ですが。書きながら夕食のメニューすごく迷ってましたし。笑
ということで、価値ある思考を心がけながら、まだまだしぶとく日々を頑張りますよ。
『個人の時代』の到来
先日はじめてブログを書いてみたところ、思っている事を正確に言語化するのは予想以上に難しいと知りました。
社会に出てから文章を書く/読むような仕事を一切してこなかったから当然と言えば当然ですが、もどかしい思いをしましたよ。
さて、今日は『個人の時代の到来』について感じていることを。
わりと共通の認識になってきている内容だとは思いますが、改めて纏めてみます。
僕はエリートじゃない。
小中学生当時の僕は、学年トップクラスの成績を誇っていたにも関わらず絵に描いたような非行に走り、見事中卒で肉体労働の世界に飛び込んだ。
これは僕に限ったことではなく多くの友達が同じような経歴を辿ったし、高校に進学した面々も大抵似たようなもので、数年遅れで面白みのない地元企業に就職、マイルドヤンキーへの道まっしぐらとなる。
親はもちろんの事、学校の先生からも『大学進学』などという言葉を聞いた事はなく、『高校受験はしておいた方がいい』『高卒の学歴があれば就職ができる』などと言われていた記憶しかない。
それに比べて典型的なエリートの人生を見てみよう。
世帯年収はゆうに数千万を超えるであろう、大手総合商社に勤める母と外資系投資銀行のMDの父との間に生まれる。
某私立幼稚園のお受験に合格し、そのまま大学までエスカレーター式に進学。卒業後は大手広告代理店に入社、その後社内制度を利用してハーバードビジネススクールでMBAを取得、帰国後に外資系投資銀行に転職し、20代にして億の金を動かし8桁の年棒を稼ぎだす。
まるで別の生き物のようだが、例え生まれた時点で同じ能力を保有していても、環境差がここまでの違いを生み出していくのだ。(少し極端ではあるが)
しかし実はこの格差、以前はこんなものではなかった。
もとより狩猟で生命を維持していた人類は、農耕・牧畜の発明により、飛躍的な生存確率の向上を成し遂げる。
それから次第に身分制度が生まれ、封建社会が始まった。これが今から約数千年前である。
この社会システムでは王族・貴族・農民・奴隷など生まれた時点で決定的な格差があり、基本的にこれを覆す事はできなかった。
その封建社会も、今より400年程前から世界各地で起こる革命により徐々に崩れ去り、今も続く民主主義や資本主義中心の新たな社会システムへ移行していく。
その結果、識字を初めとして多くの人に教育が行き渡り、生まれながらの身分差に縛られることは少なくなった。
このように、個の力では埋めようのない環境格差が存在していた近代以前とは打って変わって、個の努力次第で差を埋める事ができるのが現代であり、インターネットとスマホの普及により情報格差さえ殆ど無くなってきている。
これは、従来のように情報の受発信をするにあたって、それらが集中する機関(国家・学校・企業など)に依存したり、物理的な距離などの制約を受けたりする必要がない事を意味している。
非エリート層は、この"情報"から比較的遠い場所に位置し、物理的な生活範囲やコミュニティも狭い範囲で収束する環境にあった人たちに多い。
そのため、時代の変化に対しても敏感とは言い難い。生まれた時から家の中で飼われた猫が外に出るのを怖がるように、急な変化を受け入れるのは中々難しいようだ。
ネット普及以前の世代の非エリート層は、この事実を認識することなく、地元でマイルドヤンキー化して暮らしていく事が最も幸福なのではないかと思う。
僕個人も環境差のくだりを理解するまでは、物理的なコミュニティに依存して生きていた。しかし、ふとしたキッカケで外に飛び出してしまった家猫のように、その圧倒的自由や希望を認識してしまったからには、例え雨風の中飢えても元の退屈な狭い家には戻れないのだ。
個人が必要な情報を自由に得られるなら、高校や大学での教育はいらない。
企業にとって学歴とは、最も効率の良いスクリーニング手段だったに過ぎない。当然本質と学歴は関係がないため、個人の様々な情報をネットで得る事ができるようになってきた現代において、学歴の重要性は薄れていくだろう。
自由に世界中へ発信できるなら実力で名を上げる事ができるし、youtuberのように、本当に好きな事だけを仕事にして生きていける。
コミュニティも、物理的な距離に縛られることはなく、ネット上で世界中を股にかけて形成する事ができる。
このように、環境差によるエリート層の優位性は、時代と共に徐々に少なくなってきている。
まさに『個人の時代』の到来である。
それに併せて、テクノロジーの進化によって単純労働の価値が失われていくため、「力の無い個人は淘汰される時代」でもある。ベーシックインカムがないと本当にキツイ時代。
機械が人間の知能を超える所謂シンギュラリティはもう少し先であろう(というかこの考え自体よく分からない)から、暫くは人間独自のクリエイティビティというか、複雑な感情の動きや細かな表現自体に大きな価値が置かれるだろう。つまりは"僕、わたしは一体何が好きで何がやりたいのか"が最も重要になってくる。
今は初期段階なので中々実感しづらいけど、後になって振り返ると今は農耕・牧畜の発明以来の大革命の最中にあるんじゃないかと思う。
新しいシステムは既に出来つつあるが、旧システムがそれに抗っているような。
あと数十年後には全く違った世界になってるはず。
新時代の到来を感じてやみくもに家猫をやめて飛び出し、晴れて野良猫となってから数年。
まだまだ野田たれ死ぬのは早いから、雨風に曝されながら今日も生き残るため好きな事だけしながら踏ん張りますよ。